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今日は気軽に琵琶湖観光ツーリング

5月のお題 - 「夏めく」

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目まぐるしく変わる近頃の天気予報、今朝の予報は曇り一時雨。念のためにウインドブレーカーをバッグに入れる。

10:30頃、yayoigaoka、kouseramuさんと高月駅に集合。駅で琵琶湖周遊サイクリングマップと湖北サイクリングロードマップを手に入れて出発。まずは渡岸寺へ駅からほんの2-3分、十一面観音像は本堂とは別の展示館に安置されている。

さりげない佇まいの寺だ、とても国宝があるような寺には見えない。解説では、姉川の戦いで寺は焼失した、この像は村人が土に埋めて戦渦を逃れた、その後も本来の寺ではなく 渡岸寺、観音堂として村人の手で守られてきた観音菩薩なのだ。

十一面観音像は腰をひねった姿勢が微妙な曲線を描き、立ち姿が艶かしい。後ろ姿がまたいい。臍が出ている像も珍しいそうだ、菩薩であっても人間を感じる姿をしている。人を救済するために象徴的に長く造られている腕は、絶妙なバランスでデフォルメされている。右から見た立ち姿がいい。

いい仏像を見せてもらいました。

風が強く雨も降ってきた、仁王さんの前で雨宿り。北西風が強いし不安定な天気だから、北に廻るコースを変更して、琵琶湖を南へ時計回りに廻ることにする、目指すは近江八幡。勝手気侭なコース変更です。北西風に背中を押されるように、追い風を受けて走る。30km/hで快調に飛ばす、この辺りの速度感が一番気持ちがいいね。30-35km/hで1時間、長浜、彦根を越えて薩摩へ。

琵琶湖岸の道路は、単調なサイクリングロード、一部国道から離れて民家の中を走るところがある、ほっとする時間だ。近江八幡の東にある近江商人の街、薩摩町。立派なお屋敷がある。木地と紅殻色に塗り分けられた板塀はどこか異国の風情を見せている、どこの様式なんだろうか・・・。

薩摩町のことはkouseraさんのブログにまかせるとして。

最後に近江八幡の北に位置する長命寺山の湖岸を走ってみる、沖の島を望む、ちょっとしたヒルクライムコースは今日一の道だった。緑の生い茂る森の中の道を、琵琶湖の夕日を右に見て走るのはいい気分です。車も少ないから気持ちもリラックスして快適なツーリングができた。琵琶湖岸では一番いい道かもしれません。

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みなさん、お疲れさまでした。大阪駅へは11時到着でした。

次回、琵琶湖ツーリングは近江八幡スタートで決定、びわ湖よし笛ロードを、西湖の水郷地帯を巡って、安土城跡、湖岸の山道を通って、その後は大津方面へ・・・・琵琶湖博物館へ・・・。

走行距離 68.05km 走行時間 3h36m31s 平均速度 18.8km/h 最高速度 38.6km/h
□私のサイコンがおかしくて、走行中に0km/hになったりしていたのでyayoigaokaさんとは5kmほど誤差がでてました、実際は70kmは越えていたようです。

070519

knos3



資料:白洲正子『十一面観音巡礼』(講談社文芸文庫)

湖北の旅

 早春の湖北の空はつめたく、澄み切っていた。それでも琵琶湖の面には、もう春の気配がただよっていたが、長浜をすぎるあたりから、再び冬景色となり、雪に埋もれた田圃の中に、点々と稲架(はさ)が立っているのが目につく。その向うに伊吹山が、今日は珍しく雪の被衣(かずき)をぬいで、荒々しい素肌を中天にさらしている。南側から眺めるのとちがって、険しい表情を見せているのは、北国の烈風に堪えているのであろうか。やがて、右手の方に小谷山が見えて来て、高月から山側へ入ると、程なく渡岸寺の村である。

 土地ではドガンジ、もしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代の美しい十一面観音をお守りしている。私がはじめて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することも出来なかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。それから四、五へんお参りしたであろうか。その度ごとに境内は少しずつ整備され、案内人もいるようになって、最近は収蔵庫も建った。が、中々本尊を移さなかったのは、村の人々が反対した為と聞いている。

 大正時代の写真をみると、茅葺屋根のお堂に祀ってあったようで、その頃はどんなによかったかと想像されるが、時代の推移は如何ともなしがたい。たしかに収蔵庫は火災を防ぐであろうが、人心の荒廃を防げるとは思えない。せめて渡岸寺は、今の程度にとどめて、観光寺院などに発展して貰いたくないものである。

お堂へ入ると、丈高い観音様が、むき出しのまま立っていられた。野菜や果物は供えてあるが、その他の装飾は一切ない。信仰のある村では、とかく本尊を飾りたてたり、金ピカに塗りたがるものだが、そういうことをするには観音様が美しすぎたのであろう。湖水の上を渡るそよ風のように、優しく、なよやかなその姿は、今まで多くの人々に讃えられ、私も何度か書いたことがある。

 が、一年以上も十一面観音ばかり拝んで廻っている間に、私はまた新しい魅力を覚えるようになった。正直いって、私が見た中には、きれいに整っているだけで、生気のない観音様が何体かあった。頭上の十一面だけとっても、申しわけのようにのっけているものは少くない。そういうものは省いたので、取材した中の十分の一も書けなかった。

 昔、亀井勝一郎氏は、信仰と鑑賞の問題について論じられ、信仰のないものが仏像を美術品のように扱うのは間違っているといわれた。それは確かに正論である。が、昔の人のような心を持てといわれても、私達には無理なので、鑑賞する以外に仏へ近づく道はない。多くの仏像を見、信仰の姿に接している間に、私は次第にそう思うようになった。見ることによって受ける感動が、仏を感得する喜びと、そんなに違う筈はない。いや、違ってはならないのだ、と信ずるに至った。それにつけても、昔の仏師が、一つの仏を造るのに、どれほど骨身をけずったか、それは仏教の儀軌や経典に精通することとは、まったく別の行為であったように思う。

 今もいったように、渡岸寺の観音のことは度々書いているので、ここにくり返すつもりはない。それは近江だけでなく、日本の中でもすぐれた仏像の一つであろう。特に頭上の十一面には、細心の工夫が凝らされているが、十一面観音である以上、そこに重きが置かれたのは当り前なことである。にも関わらず、多くの場合、単なる飾物か、宝冠のように扱っているのは、彫刻するのがよほど困難であったに違いない。

 十一面というのは、慈悲相、瞋怒相、白牙上出相が各三面、それに暴悪大笑相を一面加え、その上に仏果を現す如来を頂くのがふつうの形であるが、それは十一面観音が経て来た歴史を語っているともいえよう。印度の十一荒神に源を発するこの観音は、血の中を流れるもろもろの悪を滅して、菩薩の位に至ったのである。

 仏教の方では、完成したものとして信仰されているが、私のような門外漢には、仏果を志求しつづけている菩薩は、まだ人間の悩みから完全に脱してはいず、それ故に親しみ深い仏のように思われる。十一面のうち、瞋面、牙出面、暴悪大笑面が、七つもあるのに対して、慈悲相が三面しかないのは、そういうことを現しているのではなかろうか。

 渡岸寺の観音の作者が、どちらかと云えば、悪の表現の方に重きをおいたのは、注意していいことである。ふつうなら一列に並べておく瞋面と、牙出面を、一つずつ耳の後まで下げ、美しい顔の横から、邪悪の相をのぞかせているばかりか、一番恐しい暴悪大笑面を、頭の真後につけている。見ようによっては、後姿の方が動きがあって美しく、前と後と両面から拝めるようになっているのが、ほかの仏像とはちがう。

 暴悪大笑面は、悪を笑って仏道に向わしめる方便ということだが、とてもそんな有がたいものとは思えない。この薄気味わるい笑いは、あきらかに悪魔の相であり、一つしかないのも、同じく一つしかない如来相と対応しているように見える。大きさも同じであり、同じように心をこめて彫ってある。

 してみると、十一面観音は、いわぱ天地の中間にあって、衆生を済度する菩薩なのであろうか。そんなことはわかり切っているが、私が感動するのは、そういうことを無言で表現した作者の独創力にある。平安初期の仏師は、後世の職業的な仏師とはちがって、仏像を造ることが修行であり、信仰の証しでもあった。この観音が生き生きとしているのは、作者が誰にも、何にも頼らず、自分の眼で見たものを彫刻したからで、悪魔の笑いも、瞋恚(しんい)の心も、彼自身が体験したものであったに違いない。

 一説には、泰澄大師の作ともいわれるが、それは信じられないにしても、泰澄が白山で出会った十一面観音は、正しくこのとおりの姿をしていたであろう。十一面観音は、十一面神呪経から生れたと専門家はいうが、自然に発生したものではあるまい。一人一人の僧侶や芸術家が、各々の気質と才能に応じて、過去の経験の中から造りあげた、精神の結晶に他ならない。

 仏法という共通の目的をめざして、これ程多くの表現が行われたのをみると、結局それは一人の方法、一人の完成であったことに気がつく。源信も、法然も、親鸞も、そういう孤独な道を歩んだ。渡岸寺の観音も、深く内面を見つめた仏師の観法の中から生れた。そこに、儀軌の形式にそいながら、儀軌にとらわれない個性的な仏像が出現した。その時彼は、泰澄大師と同じ喜びをわかち合い、十一面観音に開眼したことを得心したであろう。ものを造るとは、ものを知ることであり、それは外部の知識や教養から得ることの不可能な、ある確かな手応えを自覚することだと思う。

注、本書は、1975年12月に新潮社から出版された『十一面観音巡礼』を文庫化したものなので、「最近」というのは昭和50年頃を意味する。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shirasu.htmより引用しました。
by knos3 | 2007-05-20 23:30 | ツーリング