彫刻を彫る人
ずっと気になっている作家がいる、その人は彫刻を彫る人だ。楠を彫って、頭の後ろから大理石の眼球を入れる。
最新作までの「私の中のスフィンクス」という展覧会を観に兵庫県立美術館へ行ってきた、阪神電車に乗って。朝から真夏の太陽が頭の上から照りつける。
彫刻家は80年代に時代を映す作家として登場した。まっすぐな姿勢の若者の半身像はその時代をくっきりと映していた。85年頃の日本はモノづくりの最高潮に達して、ジャパンアズナンバーワンと言われていた時代。いいものを作るためにはなんでもありの時代だった。モノとお金が超高速で回っていた、そんな時代に、銀座のあるギャラリーでこの彫刻家の作品を見た。
まっすぐに立った半身像の姿は、遠くを見つめていた。体の動きはなく、静かな姿勢で、目は焦点の合わない、やや開きがちな視線。静かな内省的な彫刻だった。男性は白いシャツを着て、黒いパンツを履き、ジャケットは着ていてもネクタイはしていないので、普段の姿。どことなく、おぼろげな存在感で立っている。女性は淡いピンクのセーターをきて、白いブラウス。穏やかな表情で、まっすぐ立っている。
狂乱の時代にあって、静かに遠くを見つめる姿は、どこか心の安心を覚える姿をしていた。
そんな姿の彫刻が何体か作られた。その後、不自然な形で手が着いた。体がの木に塊のようになり人の形を失っていく。背中に手が生えた天使のような姿になり、人から、人のようで人ではない別の存在になっていく。どこか不安な、危ういモノを内に秘めた、人のような姿をした何か別のモノに変化していった。
モノを作る人は、無条件で尊敬する。作品の良し悪しではなく、モノを作るという行為が尊敬に価するのだ。中にピンと来ないモノもある、それでも、モノをつくるというのは、すばらしい行為なのだ。
彫刻家の一連の作品は、質の高い表現がされている、とくに顔、その目、際立った存在感をもった顔は、常に遠くを見ている。時とともに人から、人ではない何かに移り変わっていく姿がなにを表しているのか、大きな期待と少し残念な気持ちで遠くから見ていた。どの彫刻にもなにを見ているのか聞いてみたくなる。人には善と悪の両面がある、人はその両面の間を矛盾なく生きている。重心を左右に振りながら、バランスをとって立っているが、時には重心を失って人から逸脱してしまうこともある。天使、般若、菩薩、仙人、餓鬼、悪魔、どの側面を表に出すのかによって姿は変わっていく。
いつかは普通の人になって帰ってきて欲しいと願っていた。今回はそこを確認するために神戸まで見に行ってきた、でも、もう帰ってこないだろう・・・・。スフィンクスはこの世のモノではありません。彫刻家に、今なにを見ているのか聞いてみたい。
150809
knos3
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